初期においては経済学者は,インセンティブの重要性や限定された情報がもたらす問題については,簡単に言及するにすぎなかった.しかし,これらの問題を理解するための実質的な発展が起きたのは,わずかにこの20年間のことにすぎず,また経済学の進歩は,即座に応用例を発見することになった.---Joseph E. Stiglitz『スティグリッツ入門経済学』東洋経済新報社1994年,原著序文より引用
本書の第1の目的は,さまざまな経済問題においてどのようにしてインセンティブの問題が発生し,問題を解消するためにはどのような制度を設計することが望ましいのかを分析することにある.2002年にノーベル経済学賞を受賞したJoseph Stiglitzは上記の引用文に続いて,旧ソ連圏経済の崩壊,アメリカの貯蓄貸付組合(S&L)の破綻,経済成長のための革新のインセンティブ,公害や環境問題に関する論争を例としてあげている.このようにインセンティブ設計の視点は幅広い応用可能性を持っている.
しかしまたStiglitzが語るように,インセンティブ設計の視点で分析するために不可欠な手法が発展したのは比較的最近のことである.その手法は情報の経済学や契約理論という名称で呼ばれており,価格理論やゲーム理論と並んで現代の応用ミクロ分析の柱となる理論である.本書の第2の目的は,契約理論による応用分析を紹介しこの理論の重要性を読者に伝えることにある.
これらの目的を達成するために,本書の構成は,各章がそれぞれ異なる特定の経済問題に焦点を当てるという形をとっている.各章は焦点を当てる経済問題に対して,インセンティブ設計の視点でどのように問題が定式化され,どのような成果や経済学的含意が得られるかを読者のために展望する役割を担っている.本文中にも問題の定式化と結果の直感的な説明のために必要な数学は用いられるが,数学的な分析や導出過程は省略されるか付録にまわされている.したがって,本書が扱う経済問題に興味を持つ学部上級生,大学院生や研究者ならば,契約理論による分析を知らなくても読み進めることができるだろう.本書をきっかけとして本格的に契約理論を学習し,インセンティブ設計の視点からの分析を行う人々が少しでも増えてくれればと願っている.
本書の執筆者の多くは,契約理論研究会(Contract Theory Workshop)のメンバーである.契約理論研究会,通称CTWは,大学の枠を超えて定期的に契約理論とその応用分析について情報交換と研究を行うインフォーマルな研究会である.編者の伊藤が京都大学から大阪大学へ,小佐野が大阪大学から京都大学へ異動した1996年4月から正式にはじまり,通常毎月第3土曜日の午後に京都大学経済研究所で開催されている.詳しい情報についてはウェブサイトを訪れてみてほしい.メンバーの中には開始当時は大学院生だった若手研究者も少なくない.
本書はCTWにおいて計画され,2002年9月22-24日の夏季コンファレンス,2003年3月29-30日の春季コンファレンスに提出された論文に基づく共同成果である.執筆者以外にこれらのコンファレンスに参加されて貴重なコメントを下さった神戸伸輔氏,コンファレンス運営に際してお手伝いいただいた助手の中本裕子さん,大学院生の小林磨美さん,大洞公平さん,手島健介さん,関連するプロジェクトを助成していただいた財団法人村田学術振興財団(平成12年度,研究代表者水野敬三),財団法人学術振興野村基金(平成13年度,研究代表者伊藤秀史),本書の出版のためにご尽力いただいた勁草書房の宮本詳三氏と伊藤安奈氏に,改めて感謝の意を表したい.
2003年9月30日
編者