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唐木國彦先生


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弔辞
本日ここに一橋大学商学部唐木國彦教授と思いもよらずお別れするにあたり、謹んで哀悼の言葉を申し上げます。
先生は、昭和十五年九月に長野県でお生まれになり、昭和三十四年四月東京教育大学体育学部から、同大学大学院、体育学研究科修士課程に進学し、昭和四十二年、終了されました。
大学院終了と同時に、小平分校の非常勤講師として教育という仕事の第一歩を踏み出され、昭和四十四年四月に商学部助手に就任され、講師、助教授を経て、昭和五十八年十二月に教授に昇任されました。
その後、大学院商学研究科の教授として教育と研究に従事され、また、東京学芸大学教育学部、鹿児島大学教育学部の講師も歴任なされました。
また、平成四年七月からは、一橋大学付属図書館小平分館分館長という重責も担われました。
先生の研究領域は、多岐に渡り、しかも極めてユニークであります。
先生のご研究は、まず、ドイツ及び西ヨーロッパの労働者スポーツ運動史研究から出発しましたが、なかでも特に、ヴァイマール期のスポーツ運動の研究に没頭なされました。
先生の研究の特徴は、原理、歴史、社会学を総合した、スポーツ文化の研究であり、かつそれは、広い国際的視野に立つものでした。
それに加えて、スポーツ教育学の分野にも研究を広げ、スポーツの教育的機能を重視しながら、現状を変革していく、主体の形成に意を注いでまいられました。
また、先生は、スポーツ社会史の第一人者、アンディ・ボールの著書『スポーツの社会史』の翻訳の大業にかかわり、日本におけるスポーツ社会史研究の第一歩を記され、スポーツの社会科学的研究の基礎をつくりあげる仕事をなされてきました。
その間、『後期資本主義社会のスポーツ』の翻訳や、『スポーツを考えるシリーズ』の執筆など、多数の訳書、著書を出版され、スポーツ研究の普及と発展に尽くされました。
同時に、一方では、国際スポーツ史学会で、シンポジュームの司会、報告などで活躍され、大任を果たされてまいられました。
また、NHKテレビや新聞などの報道機関にも積極的に意見を寄せられ、新しいスポーツのあり方を模索し、つくりあげる努力をなされてまいられました。
このように、一九七0年代から八0年代の先生のご研究を概括するなら、我が国における、国際労働者スポーツ運動研究の嚆矢、先駆者となり、スポーツ権確立にむけての理論的整理と水路づけにご尽力されたといってよいかと存じます。
九0年代にはいってからでの研究、特に最近では、多様に広がりつつある、新しいスポーツの発展の諸相を、丁寧に整理・分析し、今後のスポーツの有り様を、総合的・構造的に示され、新たな段階にすすんだスポーツの全体像を「やわらかいスポーツ」として括って世に問い、多くの注目を集められていらっしゃいました。
すでに二年前から、病におかされながらも、最後まで休むことなく、熱心に学生の指導にあたっておられました。
さらに、本年度から、一橋大学年来の大学改革の一環であります、商学部の新しい講座のスポーツ産業論の担当として、新たな分野からの専門教育と研究を期待されているところでした。
本学の内外において、多大な貢献をされ、その研究の集大成が待たれ、しかも大学教育への期待も高まっている時だけに、誠に無念の思いでいっぱいです。
一橋大学にとって、大きな損失であると同時に、日本のスポーツとその科学的研究にとっても大きな痛恨事であると言わねばなりません。
私たち一橋大学関係者一同は、先生の突然の死を前にして、この悲しみを乗り越え、先生のご意志にそって、一橋大学の前進に全力を尽くすことをここにお誓い申し上げます。
一橋大学を代表し、これをもって謹んでお別れの言葉と致します。
平成八年九月一日 一橋大学長 阿部 謹也


功績調書                                                                   
 同人は、昭和15年9月26日長野県に生まれ、昭和40年東京教育大学体育学部を、そして昭和42年度同学大学院修士課程(体育学)を卒業され、同年4月一橋大学小平分校に講師として就任、以後昭和44年同大学商学部助手、同46年同学部講師、同48年同学部助教授に昇進、同58年12月同学部教授に就任し、同60年4月から同学部大学院商学研究科を担当。さらに平成8年4月からは、新たに商学部に新設された産業文化大講座スポーツ産業論を担当することになった。この間、平成4年から3期にわたって一橋大学付属図書館小平分館長を歴任したほか、前期学生委員会委員長、前期教務委員会委員長をはじめ学内改革に関する各種委員会委員として学内の運営に寄与してきた。平成8年8月30日死亡した。 
この間、同人は、一橋大学において、保健体育実技・講義、体育社会学等の学部講義や演習の指導教官として、スポーツ教育の指導やスポーツ社会学ついて具体的な事例を多数用意して丁寧に説き、学生のモティベーションを高め、彼らの学習能力を引き出す努力を欠かさなかったばかりでなく、演習指導では、春、夏、冬に合宿を行い、生活全体にわたった学生の指導にも心を配った。また、泳げない学生のための水泳講習会やクラブやサークルなどの学生の課外活動にも積極的にかかわり、専門的な立場からの技術的、組織的な指導を行い、その適切かつ質の高い助言で学生を大いに勇気づけ、彼らからの高い信頼と評価を得るとともに、一橋大学大学院商学研究科における研究指導を通じて多数の研究者を養成した。 更に一橋大学のみならず、東京学芸大学、鹿児島大学、和光大学、中央大学を始め多くの大学で教育・研究指導に尽力され、その極めて活発かつ熱心な教育活動によってわが国の体育・スポーツ教育の発展に大きな貢献をなした。この間、国際労働者スポーツ運動の研究のために、ドイツ連邦共和国への数度にわたる留学をおこない、そこでの成果をはじめ、西欧諸国での調査研究の成果 をまとめ、わが国におけるスポーツ社会史研究の扉を開くために尽力した。 
同人の研究は、多岐にわたっているが、その業績は概ね以下の三つの領域に分類される。 
その第一は、スポーツの社会史的研究に関する理論的実証的研究である。それをふまえて近代スポーツ像形成の新たな視点を明らかにしたことである。 
その第二は、わが国におけるスポーツ権論の理論的研究である。この研究を通してスポーツ権理論に必要なスポーツの価値や構造について明らかにした。 
その第三は、新たなスポーツ論の理論的展開である。このことによって、近代スポーツが抱えていた歴史的社会的限界を打開し、新たに興るスポーツ動向の全体像を明らかにする仮説を用意した。 
まず第一点については、ドイツ及び西ヨーロッパの労働者スポーツ運動史研究、特にヴァイマール期のスポーツ運動の研究において、近代スポーツが早くから労働者階層によっても行われていたこと、しかもそれを継続的組織的に行うための組織や運動が展開していたことを明らかにし、従来のブルジョワ階級による近代スポーツ支配論を改めさせた。
次に第二点について同人は、一九七五年の「ヨーロッパみんなのスポーツ憲章」やユネスコの「体育・スポーツ国際憲章」に示されたスポーツ権思想を究明し、これを実現するための方法について論究し、「場」の自由、「道具」の自由、「人」の自由の三つの自由が必要であることを明らかにした。これは、スポーツの構造的把握に基づくもので、従来のスポーツ概念を塗り替えるものである。 
第三点については、近代スポーツに内在している組織性、競争性、記録性などがスポーツの発展にとって最早マイナスの要件になってしまっていることを明確にし、みんながスポーツを楽しむためには、新たなスポーツ観に立ち、従来の「硬いスポーツ」から「やわらかいスポーツ」へと変化しなければならないとした。 

このように、社会史的手法による近代スポーツの再構成をとおしてその限界性を解析し、今日におけるスポーツの再構築に向けた理論的枠組みを用意したことは、極めて大きな業績であり、今日求められいるスポーツの多様な発展を志向する上で大きな水路を切り拓いたものとして高く評価されてきている。 
また、国際的な学術研究交流でもわが国の体育・スポーツ研究の窓口として、国際的な学会参加を通して、あるいは諸外国の学術・研究成果の訳出などをとおして多大な貢献を行った。国際学会では、国際スポーツ史学会や国際スポーツ社会学会への参加、発表や司会など国際学会の発展に尽力した。諸外国の優れた体育・スポーツ文献の紹介においても、訳者の注を補ったわかりやすい翻訳としてこれまでこの分野では見られなかった精彩を放ち、この点でも大きな貢献をなした。その主なものとして、スポーツ社会学では世界の第一人者であるA.ボールの著書『近代スポーツの社会史』(ベースボールマガジン社)やドイツの若手研究者ベーメ他の著書『後期資本主義社会のスポーツ』(不昧堂出版)さらには、G.シュティーラー他著による『ボール運動の指導事典』(大修館書店)の監訳等がある。 

このように同人は、わが国におけるスポーツ社会史研究やスポーツの社会科学的研究の第一人者としてその功績は高く評価される。 
このほかにも同人は、体育科教育の分野でも教育現場の諸問題を理論的に分析し、具体的な解決の方法を提示した論文を多数書き上げ、また実際にその指導に当たるなど、スポーツ教育の普及と発展に寄与した功績は大である。
以上のように同人は、わが国の体育スポーツ研究の水準の向上に努め、わが国の高等教育の発展とその充実並びに学術文化の振興に国際的視野から多大な貢献をなしてきたものであり、これらの貢献は極めて顕著なものであると認められる。                                                                               


一橋大学に研究教育の思いを馳せた唐木さん

 お久しぶりですね唐木さん最後の夜をご一緒してから早3ヶ月がたちました。
入院して10日で、「もう力尽きたよ。やり残したことは沢山あるけど自分なりに大方のことは手がけたのでまあいいか、後はよろしく」と勝手に自分で決めつけて別れてしまったのですよね
すべてのことに明るかった唐木さんなので、ご自身はよかったけれど残された者は大変なのですよ
ことの重大さがじわじわと感じられてくるという始末なのですから

2年前、肝臓ガンが発覚し、世界のあらゆる情報・データを集め、専門家とも相談して決断したのが免疫療法でした。体内におけるガンや病原菌との共生の思想から発する新しい医学、免疫療法への道に共鳴し、それに賭けたのです。その結果、ほぼ完治したと医者からもいわれ、ご本人もそのつもりで日々過ごされていました。
今年2月に他の医者から後4ヶ月という宣告を受けながらも、それを乗りきったかに見えたのですが、危機は身に迫っていたのです。しかしそのことはいっさい他言しませんでした。愚痴をいわないのが唐木美学だったのかもしれません。

唐木さんがスポーツの世界に踏み込んだのは、バスケットボールへののめり込みから、人生設計の変更を強いられた結果によるものでした。
高校時代、そして東京オリンピック大会のバスケットボール強化候補選手としての大学の4年間、さらに実業団の熊谷組での選手生活への集中。そこで見えたバスケットボール選手としての限界に終止符を打ったのは、恩師丹下保夫先生の「唐木君研究室に戻ってきなさい」の一言であったというのです。
花形選手の表と裏を実体験した唐木さんにとってどんなに丹下先生の温かさがありがたかったことかと、常々語ってました。
その「一言」を契機に研究・教育への情熱が燃えたぎり、「国民のための体育・スポーツ」へと駆り立てられていったのです。「自らの青春時代をバスケットボールに釘付けにしてしまったスポーツとは何か、この巨大なモンスターの正体を暴きたい」と立ち向かったのです。しかしそれは巨大でありながらも、人間性に満ち溢れており、一層学問的な好奇心をそそられ、魅せられてしまったのでした。
ですから、「スポーツ」研究に携わってきたことを誰よりも誇りに思ってきたのです

 辞書に持ち替えた唐木さんは、1967年東京教育大学修士課程(体育学)終了後、直ちに本学に奉職し授業以外研究室にこもって徹底的な研究活動に入りました
それから数年後「自分は一橋大学で体育・スポーツの教育・研究に一生を捧げるつもりだよ」と固い決意を表明されたのでしたが、本当でしたね

 唐木さんの研究の流れは60年代後半から70年代前半にかけておこなわれた「・の教育論」や「ヨハン・ホイジンガのホモ・ルーデンス」をもとに「論の批判的研究」からはじまり、70年代に取り組んだドイツ、「ワイマール期の労働者スポーツ運動史」の研究、「スポーツ権論」の研究を経て80年代からの「やわらかいスポーツ」論へと人間の顔をした、人間性豊かなスポーツの構造解明に向かって、広がりと深まりを求めて突き進んできています 
論研究は「レクリエーション研究」の問題として取り組まれ特にレクリエーションの原理的な解明とそれが現代の労働場面で果たしている役割について、労務管理や企業内レクリエーションの位置づけにおいて、その有効性と問題性を明らかにしたものです
 「ワイマール期のスポーツ運動史研究ではそれまで、わが国においては理解されてこなかった近代スポーツの発展史における市民や労働者のスポーツ運動が果たしてきた役割を鮮明にするとともに近代スポーツの広がりと深まりのエネルギーがブルジョワ階層や一部の有閑階級からのみ生じてきたのではないことを説き一部の者たちの専有物としない運動が繰り広げられていたことを実証したのです

 そして「やわらかいスポーツ」論の提唱に至ります
ここでは従来の近代スポーツの功罪を吟味し統一組織や統一によって世界に近代スポーツが普及しそれによって技術や戦術が高まり記録が伸び人間的な限界への挑戦にチャレンジすることで、近代スポーツの質が高められてはきた。
しかし、そこには限られた者しか近づけないような「硬さ」がある
そうした行為が多くの人々のスポーツ参加を拒んでしまうというアンビバレントな状況をもたらすことに注目し「硬いにの対極にやわらかい概念を登場させ新たな時代のスポーツ像を浮上させたのです
ここにはスポーツのもつ多面的な価値や機能を重視し、一元的な決め付けや狭いスポーツ論からの脱却をめざす思想が息づいています

そして従来のこうした狭いスポーツ論が抱える問題点が教育の場にストレートに現れているとして体育科教育の内容や方法の手直しの必要性を痛感し体育教師らとその意識改革に取り組んできます
 教育問題への真剣な眼差しは今日なお体育やスポーツに向けられている「過去の体育科にしみこまれた誤った考え方つまり堅い重い肉体重視・認識軽視といった心身二元論、倫理・道徳重視」の考え方を払拭することに向けられてきたのです
恩師丹下保夫先生が戦前の体育一方的で身体のことしか教えない、考えない体育人間性を否定し従順さだけが求められた体育から抜け出すために全国の体育教師に働きかけて進めてきた研究会にも事務局長、研究局長としてかかわり、参加者と一緒になって教育・体育問題を考えてきたのです
最近ではもっとも体系化されたG.シュテーラーらの400を超える大著『ボールゲーム指導事典』(大修館書店)を3年がかりで翻訳されたり、バスケットボールの指導に関する総合的な学習内容の体系化を実践的に明らかにするなどこの分野での活躍も群を抜いていたのです

最後の授業となった小平での授業でも、1限の学生が8時前に鍵を取りに来て自主的に授業に備えたり、新しい教材開発に取り組ませ学生の自主的で創造的な授業を実践するなど、授業や学生の教育にはことのほか熱心に接してきていました
 体育を何とかここまで引っ張ってこられた唐木さんが突然去られた今私たちに課せられた課題は、本学の方々の理解と協力を得ながら、唐木さんが常々語っておられたような本学の発展のための惜しみない努力を、今まで以上に心していくことだと、改めて実感いたします。

 大学運営においても、付属図書館小平分館長、大学改革将来構想委員会をはじめ大学の主要な委員会委員を任されるなど、機関の中枢部で活躍しながら体育エリアの位置づけや改革に中心的な役割を果たしていかれたのです。

当初は、今年度から新設された社会学部スポーツ社会学講座での後継者養成を夢見ていたのですが、新天地を求めて商学部に設置された「スポーツ産業論」講座に私と二人で所属し、新たな分野での取り組みを開始しし始めたところでした。
10年がかりで「スポーツ産業論」を形あるものにしようとこの4月から、少しずつ計画を練りはじめてきたのです。
長い間大学改革に当たって、唐木さんは粉骨砕身頑張ってきたのです。
その最後のつめを前にして他界されただけに、なんとも残念だったことでしょう。この点でも惜しまれてなりません。

 最後になりましたが、唐木さんは、自然科学の世界にもかなり精通しておりました。
特に「電気」にはかなりの興味と関心をおもちでした。オーディオ器機の組立には、専門家もビックリするほどの腕前を見せつけたものです。
亡くなる数カ月前にも高性能を持った真空管アンプを、それもプリ、メインアンプともに一つ一つ部品を探し集めながら組立て、そのアンプに見合うスピーカー(タンノイのエジンバラ)も選び抜き、信じられないほどの広量域で高音域をカバーする音色を創り出したのです。
なんとオーディオ雑誌編集部からそれについて原稿依頼があり、「3つの驚き」というタイトルで寄稿することになっていたのですが、これも活字でみることができません。

でも、この名器で唐木さんが最後に聴かせてくれた曲は、グリークのペールギュントでした。
慈母オーゼの死にまつわる話を聴かせてくれたのは、唐木さんが入院する前日の夜でした。
病による記憶の衰えに抗しながら静かに、一言一言奥様と私に解説してくださったのが本当に最後となったのです。

 55年の人生、短かった、またやり残したことが山ほどあったとはいえ、本当にご苦労さまでした。またお会いしましょう。


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